7-2 第2話 白紙の領収証


「白紙の領収証に、実印を押したんですか」

私は思わず、もう一度聞き返した。

「そうだよ。銀行の人が必要だと言ったから」

K社長は、何でもないことのように答えた。

何でもないはずがない。

金額も、支払先も、使い道も書かれていない書類に名前を書き、実印を押して渡す。

普通なら、絶対にしてはいけないことだった。

だが、これは道端で見知らぬ男に頼まれた話ではない。

銀行の支店内で、銀行員から、

「手続に必要です」

と言われたのである。

相手が銀行員であれば、正式な書類だと思ってしまう。

もちろん、だからといって白紙の書類に実印を押してよいことにはならない。

K社長自身も、後になって、

「自分にも落ち度はあった」

と認めていた。

ただ、そもそもその紙が本当に一般的な「領収証」だったのかは分からない。

銀行所定の払戻請求書だったのか。

別の手続書類だったのか。

現物は残っていない。

K社長が一貫して「白紙の領収証」と呼んでいただけである。

話は、2006年5月30日に遡る。

身寄りのない男性が亡くなった後、K社長は、その人が残した遺言に基づいて預金を受け取るため、弁護士とともに伊豆にある地方銀行の支店を訪れた。

預金は、

普通預金1,354万6,120円。

定期預金100万円。

合計1,454万6,120円。

窓口では、手続に必要な裁判所関係の書類などを持ってくるよう説明されたという。

9日後の6月8日。

今度は税理士を伴い、再び支店を訪れた。

持参したのは、裁判所関係の書類、実印、印鑑証明などだった。

その日、対応した銀行員を、ここでは「行員A」としておく。

K社長の説明によると、行員Aは、持参した書類に加えて、白紙の書類にも記名し、実印を押すよう求めた。

理由は、

「銀行内部の手続に必要だから」

というものだった。

K社長は、その指示に従った。

「その書類の控えはなかったんですか」

私が尋ねても、手元には残っていなかった。

その日の説明では、別の支店にK社長名義の新しい口座を作り、そこへ金を移すことになっていたという。

内部決裁には10日ほどかかる。

その後、約1,000万円と利息を振り込む。

K社長は、そう説明されて東京へ戻った。

ここに、一つ分からないことがある。

預金総額は約1,455万円だった。

ところが、振り込むと説明された金額は約1,000万円。

残りの約455万円はどうする話だったのか。

現金で渡す予定だったのか。

別の処理をする予定だったのか。

K社長に聞いても、はっきりした答えは返ってこなかった。

十五年以上前の出来事である。

本人の記憶が混乱していた可能性もある。

説明を聞き違えていた可能性もある。

そもそも、最初から預金全額を移す話ではなかったのかもしれない。

だが、後になって通帳を確認すると、2006年6月8日付で、普通預金も定期預金も全額が払い戻されていた。

そして、その約10日後。

支店の別の銀行員から、K社長へ電話があったという。

「行員Aは、6月8日に退職しました。今後は私が担当します」

私は、その日付に目を止めた。

6月8日。

K社長が支店を訪れた日。

白紙の書類に実印を押したとされる日。

預金全額が払い戻された日。

そして、担当銀行員が退職したと説明された日。

すべてが同じ日だった。

「本当に、その日に退職したんですか」

私は尋ねた。

「そう聞いたんだよ」

K社長は答えた。

だが、それを裏付ける資料はなかった。

だから、この時点では何も断定できない。

本人が正規に預金を受け取っていた可能性もある。

別の口座へ送金されていた可能性もある。

手続に関わった第三者を通じて処理されていた可能性も否定できない。

だが、確認する方法はあるはずだった。

誰に支払ったのか。

どこへ送金したのか。

誰の署名や押印によって払い戻したのか。

そして行員Aは、本当にその日に退職したのか。

銀行の記録を確認すれば分かるはずだった。

しかし、K社長はその後、すぐには支店へ戻らなかった。

新しい担当者を名乗る銀行員から、

「印鑑証明を持って、もう一度支店へ来てほしい」

と何度も言われたという。

K社長は、東京の支店へ送金してほしいと頼んだ。

しかし、

「それはできない。一度こちらへ来てほしい」

と言われ続けた。

その頃には足も悪くなっていた。

しかも、金に困っていたわけではない。

銀行にある金が消えるはずはない。

いつか足が良くなったら行けばいい。

そう思っているうちに、年月が過ぎた。

「銀行だから、安心してたんだよ」

K社長は、そう言った。

白紙の書類に実印を押したことも。

長年、通帳を確認しなかったことも。

本人の不注意と言えば、そのとおりだった。

だが、その不注意の根底には、

銀行なら信用できる。

銀行員が言うなら間違いない。

という感覚があったのだろう。

その信頼が正しかったのか。

それとも、K社長の記憶の方が間違っていたのか。

答えは、まだ分からなかった。

そして十数年後。

K社長は、再びその支店へ向かうことになる。


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